初代今井兼文 文政11(1828)年~明治34(1901)年
創業者である初代今井兼文(芳斎)は文政11(1828)年、岡山で生まれ幼少にして父を亡くし、母の実家である今井姓を名乗るようになった。
母とも12歳のときに死別し、岡山の石井藩医邸に住み込んで医学の勉強を始め、17歳で豊後小鷲の帆足萬里の許に移り研鑽を重ねた。
やがて長崎の鳴滝塾でオランダ語と西洋医学を8年間学んだ。
その後岡山へ帰郷したが、岡山の池田侯と縁の深い因幡藩に召し抱えられ、安政4(1857)年、米子組儒医として米子に移り住んだ。
種痘を広めるなど新しい治療を行ったが、明治維新後封建的身分制度が廃止され禄を離れることとなった。
明治5(1872)年、学制頒布で各地に学校が設けられるのを機に、知識の普及のため尾高町で今井郁文堂を開業した。当時の商品は木版刷りの漢書がほとんどで、松江から船便で仕入れた本を畳の上に並べて売る<座売り>であった。
当初の取引先は官庁、学校が中心であったが、教育制度の発展にともない市場も拡大、取扱商品も多様化していった。
一方、出版物が木版から活版印刷に切り替わり、地方新聞が発刊されるのに目をつけた兼文は、印刷業の将来性を予見し、明治17(1884)年に書店の隣に活版所を開設した。
製品は郡役所の布告や議案、美濃紙や半紙に印刷した戸籍簿などの印刷物が主で、西伯、日野一円の役所や学校の需要を一手に引き受けていた。
また、兼文は雪窓と号し、書をよくし、文人としての交友も多かった。